「生涯青春」継続中(^_^) vol.18

10月。年に一度、八百万の神々は出雲大社に集まり、さまざまな「神議(かみはかり)」をされるため、出雲では「神在月(かみありづき)」、出雲以外の土地では「神無月(かんなづき)」と呼ばれてきたそうです。

(この語源にもやはり諸説あるようです。神様の大集合説はちょっと出来過ぎ感を持ちました)

6月の「水無月(みなづき)」の折にも少し触れましたが、古語では「無」は「の」を表す表音文字で、しばしば強調の働きを持つそうです。

 

枕草子に「心もなの事や=なんと誠意のないことよ」という一文にも、強調の響きの役割をしている事が、よく分かりますよね。

このことを念頭に置いて読み解くと、6月は水を大量に必要とする月だからこそ「水の月→水無月」、そして10月は秋の夜長の中で、いつになく神を意識する月だからこそ「神の月→神無月」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

 

せっかく「神無月」に思いを馳せたので、ここからは「神」という漢字について、深読みしてみたくなりました。

「神」という字の左側にある“示(しめすへん)”。これは古くは神への捧げ物と、その台座を表す象形文字だと言われていますが、私には“腰を折り、祈る人の姿”に見えてなりません。右側の「申(もうす)」は、まさに祈りの言葉を口にすること。つまり「神」という字は、祈る姿と、祈りの言葉が一つに結びついた形で、人が祈るという営みを宿した文字だというのが私の深読みです。

 

文献では祭壇に生贄を捧げる象徴文字とも説明されますが、そうした厳粛な意味合いと同時に、古代の人々の切実な祈りの姿もまた、この字に込められているのではないかな?と深読み推測を楽しませて貰いました。こんな空想を楽しむのも、秋の夜長ならでは楽しみかも・・・です。

の・・・今でもちょっとした強調文に使ってますね(発見!)

 

太陽と月が静かに替わる景色の中に、神無月を・・・・